まさか私が選挙に関心を持つ日が来るとは…
7月20日の選挙の日、早朝の早川の空気が明らかに違っていた。
カラスが妙に多く、地面の下の奥深くがグルグル動いている感覚。
珍しく猫ちゃんは起きずに1日爆睡していた。
選挙によって動いたのは国や制度ではなく、たぶん、集合的な何かだったとしか思えない。
選挙の日の夜、テレビから流れてきたあるアナウンサーの言葉が引っかかった。
「そういうことはやめていただきたい」
一つの政党の代表に向かってそう言ってた。
この人の感情で話してる。
その人の恐れが怒りになって出てきた言葉だと思われる。
自分の中の信じてきた秩序が壊されそうになって、思わず外に向けて手を伸ばしてなんとか止めようとしてる感じ。
“異質な存在”に対する反発は、内側にある不安の投影。
人は、自分を変えられないとき、他人を変えたくなるもの。
でも、言葉で人は変わらない。
深いところに踏み込んで、腑に落ちるものがなければ変わらない。
今回の選挙で、それを改めて感じた。
感情で持論を話すアナウンサーが増えてきたのも、テレビというメディアの「中立」の限界を現わしていると思う。
「選び取る側」の意識が、情報の受け手の中に湧き上がってきているのを感じた。
それを一番感じたのは、ネットだった。
演説の配信で、肝心の場面になると音が止まり、映像が固まる。
コメント欄には、「妨害だ」と書かれる声があふれていた。
それを“陰謀”と笑う人もいるけれど、ただの偶然とは思えない。
大事な言葉が発する直前に画面と音が止まる。
その連続を見て、「これは何かある」と感じる方が、むしろ真実に近いと思う。
「なんでこうなる?」「誰がやってる?」と疑問を持つ人が増えるだろう。
本当のことを話そうとすると妨害される時代。
けれど、画面が止まっても、音が消えても、信念で見ようとする人は確実に増えている。
「妨害が入る」ということは、変化を許さない側の力が働いているということ。
時代が変わってきている証拠。
ネットでは賛否が交錯していた。
選挙に参加していなくても、意見は言える世界。
テレビだけを見る人、ネットだけを見る人。
人によっては「知らないから今までと同じところに」の状態の人もいる。
叩かれたことで、応援したくなる人も出てくる。
一方で、怖さから距離を置く人もいたはず。
けれど、「今までと違う」と感じた人が、たしかにいたと思う。私も含めて。
政治には無関心だった私が、ふと出てきた動画で「あ、選挙なのね」から始まり、色んな政党の演説を聞いていると、その人の魂の声が入ってくることもあった。
正直、政策などはほとんど聞いていない。その人がどういう人か、その人自身に嘘をついていないかどうか、という「内側」を見ていた。
色んな候補者の演説を聞いて分かったことは、「諦めていない」人がいたということ。
それを私の鏡として見せてくれていたと捉えた。
そして権利として与えられた1票を、20年ぶりに投票した。
きっと10年後、想像もできない世界になっている。
今回の選挙の結果に込められたのは、「誰かが変えてくれる」という受け身の思いと、その代償。
その中に、「自分も動く」という新しい意志が混ざりはじめていると感じる。
直接どこかの政党などとのかかわりはないけれど、これから動いていく政治に関心を持ち始めている。いつまで続くか分からないけど…
私が選挙に関連する記事を書く日が来るなんて、1週間前までは思ってもいなかった。
私も変わったんだな、と思った出来事。